いつかたどり着く

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中国嫁日記作者の騒動を通して、人を「信じる」ことについて考えた

騒動の内容は、全てではないけど漫画になっている。


第1話 気がついたら全てが失われていた : 月サンは困ってます


第2話 全てなくなっただけでは終わらなかった : 月サンは困ってます


で、NEWSポストセブンにも記事が乗った。



『中国嫁日記』作者 「ある日、いきなり無一文生活」を激白│NEWSポストセブン


中国嫁日記作者について何か言うことはないんだけど、この記事の一文にちょっと気になる部分があった。

――無防備に信用するからお金が無くなるのだと指摘されそうですが?

井上:起きてしまったことについては、ひとつずつ対応していくしかありません。ご迷惑をかけた人には謝るしかない。でも、スタッフを信じないと一緒に仕事はできなかった。少なくとも私はそうだったんです。だから、信じずに仕事をするという選択肢はありえなかった。


信じずに仕事をするという選択肢はありえなかった。これは別に気になることではない。
ただ、信じるという行為と任せっきりにする行為の繋がりが、しっくり来なかった。


上の事情の全貌はよく分からないので、言及はこれ以上しない。
今回の騒動をきっかけに、少し自分なりに「信じる」ということについて考えてみる。

疑った先に辿り着ける、「信じる」という行為


初対面の人間を信じる人は、まずいない。
その人が、どういった人間か分からないのに、信じるということは基本的にはない。


仮にあったとしたら、よほどの場合を除いて「考えることを放棄した結果」だろう。


「信じる」という行為にたどり着くまでに、人は対象に対して様々な疑惑・疑念を持つ。
そういった部分を1つ1つ取り除いた先にあるのが、「信じる」という行為。


簡単にできる行為ではないし、そもそも簡単にできてしまう方が本来おかしい。
だからこそ、「信じる」という行為は尊いものに感じられる。

信頼は糸の結び目


信頼と信用の違いはよく分からないけどが、ここでは「信じる」と似たような意味合いとして信頼という言葉を使う。


人を信じるという行為は、前述した通り尊いものだと思う。
人を信じて頼る、言葉にすれば簡単でも、行為としてはそうそうできるものではない。


しかし、例え疑惑を乗り越えて辿り着いた信頼だとしても、何かを相手に頼りっぱなしにしてしまうことは、やはり考えることを放棄している。


信頼は、糸の結び目のようなものだ。
互いに引っ張り合うことで、その結び目は強く結ばれる。。片方だけが引っぱっても、結び目は固くならない。
最初に固くしたとしても、結び目は時間の経過と共に緩んでいく。


だからこそ、互いに引っ張り合うことで、信頼という糸の結び目は強固になる。
どんなに信頼していたとしても、この行為を怠ってはいけない。
相手との関係が大切なら、尚更のはず。

信じた自分を誇って


此処から先は、完全に理想論。甘っちょろいお伽話。
疑いを抜けた先に辿り着いた「信じる」という行為でも、裏切られないという保証はない。


裏切られた時にどうするか。
相手が憎いだろう。信じていたのにと、恨むだろう。


でも、そういった負の感情に支配されるよりも。
信じた自分を誇って欲しい。正しいプロセスを踏んだ「信じる」という行為は、尊いものだ。
馬鹿だったと思わない欲しい。それは誇るべきことだ。


その上で、裏切った相手を憐れむなどすれば良い。
許してもいい。許さなくてもいい。
ただ、信じた自分を誇って欲しい。


「信じる」行為をやめるのではなく、人を見る目を養い、もっと強固な信頼関係を築けるよう努力すれば良い。
そういうことが、できる人間になりたい。




最後は完全に理想論で、自分がそうできるかと問われたら、口が裂けてもはいとは言えない。
でも思うだけなら、良いかなって。


人を「信じる」ということは、疑いを抜けた先にある尊い行為で。
そこで結ばれた「信頼」という糸の結び目は、互いに引っ張りあうことで強固なものとなる。

……と、私は思っている。


棺姫のチャイカ (11) (富士見ファンタジア文庫)

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信じるということ (Thinking in action)

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