友達の「すき」と、恋愛の「すき」の差異は何か。
誰でも一度は考えたことがあると思います。
この作品は、そんな「すき」を描いた作品です。
どこかもどかしくて、だけどニヤニヤしてしまう作品なんだ
友達の「すき」、恋愛の「すき」
「好き」という言葉を、私たちは様々な場面で使います。
私は両親が好きだし、はじあくも好きだし、大学の友だちも好きです。
全部同じ「好き」という言葉ですが、その意味合いは微妙に異なる。
その中でも、やはり恋愛の「好き」は群を抜いて強い、と思っている人が私を含め多いんじゃないかな?
この漫画のヒロイン、亜純もまたそういった人間の一人です。
姉である鏡子がその友達である城田と体を重ねているのを亜純は見た時、恋愛の「好き」の強さを感じていました。
友達だった城田は、鏡子がどのような人間か知った上で付き合っている。
人として好きだから、長い間一緒にいられる(まあ城田はずっと好きだったわけだけど)
亜純自身それは良い事だと思っていても、どこか腑に落ちない部分がありました。
きっとそれは、寂しかったから。
姉がいつの間にか立ち直っていたこと、城田が姉とそういう関係になっていたこと。
自分が知らなくて、置いていかれたみたいで、寂しかったんでしょう。
姉妹としての「すき」も、友達としての「すき」も、恋愛の「すき」には立ち入れないような気がして。
しかし亜純の友達に、寂しいって思っていいのだと受け入れてもらって、元気になりました。
確かに恋愛の「すき」が強いかもしれない。けれど、それ以外の「すき」が負けるわけでもない。
同じく、そこに存在するものだから
友達の「すき」、恋愛の「すき」
城田と鏡子は、友達の「すき」を辿って恋愛の「すき」にたどり着いた。
それって最強じゃない?
この言葉が強く胸に響いています。
上手く説明できないのに、なぜか納得してしまっている。
人として好きだから、友達として長く付き合っていられる。
それから恋愛の「すき」に辿りついたのだから、最強なのだ。
……と私なりに言葉にしてみましたが、半分正解くらいで、半分は違っている気がします。
友達の「すき」のまま、本当の気持ちを言わないのは苦しい。
でもそれを辿って、恋愛の「すき」に辿り着いたら、きっと強い絆が結ばれているのかもしれません。
上手く言葉にできないけど、何となく伝わってくる。
確かに、その「すき」の在り方は、最強なのかもしれない。
混ざり合う「すき」
友達の「すき」から恋愛の「すき」に辿り着いた場合、友達の「すき」はどうなるのでしょうか。
私は今までは、無くなると解釈していました。
友達から恋人へ。「すき」の形も、恋愛の「すき」に移るものだと。
ただこの漫画を読んで、消えるわけではなく、「混ざる」のだと考えたくなりました。
友達の「すき」と、恋愛の「すき」が混ざり合って、1つの強い「すき」を作る。
だからこそ、最強なのかもしれません。
どちらの「すき」もすでに在って、消えること無く、混ざる。
なるほどなあ、と納得してしまいました。
在り方は変わったとしても、確かにその「すき」は在る。
混ざって存在している。この珈琲の演出はニクい。オシャレです。
何となくですが、読み終わった後に自分の「すき」という気持ちを、大切にしたいなと思いました。
半分も魅力を言葉にできていませんが、このマンガはニヤニヤするし考えさせられます。
ちょっと、脳みそをくすぐられたかのように、身悶えしちゃいそうです(笑)