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少年漫画に「努力」は必要なのか

ちょっと煽っているようなタイトルになっていますが、なんでこんなことを書くのかという説明を簡単に。


少し前に記事を書いた天狼院という書店で、「ヒットする漫画」というものをテーマに、好きに漫画を語ろうというイベントが開かれました。

そこの内容を詳細に書くのは、趣旨的に良いのか分からないので控えますが、その中で最近はジャンプでさえ、努力する部分が描かれないこともあるというような意見が出ました。


最近のヒット作ということで、進撃の巨人をベースに話が進むことが多かったのですが、ジャンプも努力描写は省くし、進撃の巨人だってないよね……という話に。

※どうも、ドラゴンボールの亀仙人の元での悟空が行う修行編的なものを、努力として捉えていた印象


その背景としては、「努力」を必ずしも評価しない価値観がビジネス書などによって作られているというものでした。
努力は必ず報われるものではなく、結果が出ない努力は意味がないというような。


それが正しいかは私には分かりませんが、何となく分かる部分もあります。
ということで、最近の少年漫画の「努力」をちょっと考えてみたいと思います。

進撃の巨人の努力

進撃の巨人(16) (講談社コミックス)

進撃の巨人(16) (講談社コミックス)


分かりやすく修行編というのはないかもしれませんが、そもそも1巻で訓練してたりするんですよね。
巨人になれるようになったあとも、それをコントロールできるようにしようとするなど、修行編という形ではなくとも、努力しているのは読んでいて伝わってきます。


「努力」しているということを、ことさらアピールしている描写はありませんが、作中の端々に努力の跡を感じられると私は思います。

「友情・努力・勝利」のジャンプから、「努力」はなくなったのか

そもそもなぜ、ジャンプからも努力がなくなったかという話になったかというと、ワンピースは2年間の修行をカットしたからというもの。
ジャンプの定番で「努力」の象徴であった修行編を描かなかったので、ジャンプでさえ「努力」はなくなりつつあるというものでした。
確かに、分からなくはありません。


ただ私は描かなかったことは確かにしろ、ワンピースもまた修行→強化のジャンプサイクルを守っているのだと感じました。
何というか、「努力」の描き方が変わってきているというのが私の印象です。


修行編と呼ばれるほど、練習や訓練の描写を何周も書くようなことは減ってはいるのかもしれません。
その中で、どうやって限られた話数の中で「努力」して成長したのかという、見せ方が重要になっている気がしています。


トリコや最近まで連載していたNARUTOのように、王道的な修行編がある作品ももちろんあります。


面白いのは、食戟のソーマです。

食戟のソーマ 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

食戟のソーマ 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


大会に敗れたソーマは、自分に足りないものを探し始めます。
それを学校の課題と合わせて、描いているんですよ。学校から課せられた課題をクリアしながら、自分に足りないものを身につけていく。


明確な「修行編」というわけではありませんが、ストーリーの自然な流れの中で、結果として修行に繋がるという展開を見せています。そもそもこの漫画は、創意工夫をしている段階で、強い努力を感じさせます。


暗殺教室なんかは、ほぼ全編修行みたいなものですよね(笑)
殺せんせーとの授業を通し、生徒は各々のスキルを磨いていく。
ある意味では、「修行」をテーマに描いていると言っても良いかもしれません。生徒は果たすべき目的のために、努力をする。
努力する姿があまり辛そうに見えないから、この漫画で「努力」を意識することはない人もいるのかもしれませんが。
これもまた、1つの「努力」の描き方かなと思っています。


少年漫画に「努力」は必要なのか、私には判断できません。
ただ、「修行編」というような話数を割いた描写は少なくなったかもしれませんが、見せ方が変わっただけで、多くの少年漫画に「努力」が見られ、その先の成長に繋がっているのではないかなと考えています。


一部の漫画しか挙げられていないので、説得力薄いけど(笑)
サンデーとマガジンのそういうのも、書いてみたいな。


余談
まあこんな記事、その場で言えよという話かもしれませんが、コミュ症なので(笑)
帰宅後に、こうじゃないかなという考えをまとめてみました。こういう考えもあるよ的なくらいで(予防線)


暗殺教室 13 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 13 (ジャンプコミックス)

努力論

努力論

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